天なびコラム

第7884話

2022年05月29日

畏敬の念

今日は日曜日、キリスト教では、一部の宗派を除いて安息日、と呼ばれる日です。
私の高校時代の親友は熱心なキリスト教徒で、日曜日は必ず教会に行き、神様に祈りをささげる時間を大切にしていました。高校生の頃はその子とよくおしゃべりをして休み時間を過ごしましたが、進路を考える時期、私が「都会の大学に行きたくない。なんか人がたくさんいて、自分がすごく小さい存在に感じるから」と言うと、親友は「そう?神様はすべてを見てくれているよ」と何食わぬ顔で返事し、少し驚かされました。私は今も昔もキリスト教徒ではなく、その時は彼女の気持ちが分かったような分からないようなでしたが、そんな風に即座に返せる彼女をとても羨ましく思ったことを覚えています。

あれから十数年経ちますが、私にとって彼女の神にあたる存在は、宇宙や地球といった自然システムなんだと、なんとなく思うようになりました。私達を取り巻く自然、生き物、ひいては人間が作る社会、自分自身の体と心ですら、すべてを知り、作ったり操作したりすることはできない、まさに「神のみぞ知る」ものです。だからこそ私は自分がちっぽけだと感じたのですが、裏を返せばそんな緻密で大きな存在の一部でもあり、彼女の言葉を借りれば「神様が見てくれている」状態でもあるわけです。そのことにふとした時に気づくと、「なんかすごいな」という気持ちがして、反対に大抵のことは取るに足らない些細なことになっていきます。

自分の及ばない大きな存在を敬い「なんか、すごい」と思う気持ちは「畏敬の念」と呼ばれます。高校の親友にとってはその対象が神ですし、私にとっては自然や自然法則だという、ただそれだけの違いだったようです。

私の信じているものに共感する人がいるかもしれませんし、そうでない人もいるでしょう。私もさらに10年後、同じように考えているかは分かりません。ただ何が言いたいかというと、私含む無宗教者で、教会に行くような縛りがない多くの日本人は、何か大きな存在の一部であることを感じる頻度が少ないのかもしれません。なんか孤独な感じがしていつか心がプツンと切れてしまうのは、人一人とっても精巧で緻密で素晴らしい存在なのにもったいないと思うのです。一週間に一度は、自然でも、先人の偉大さでも、子供の成長でも、対象はなんであれ「なんか、すごい」と感じる時間を大切にしてほしいなと思います。

皆さんも一週間のうちの大切なお休みの日、畏敬の念とともに、体と心をどうかご自愛ください。


執筆者:シャチハタ